昭和五十七年一月十八日 朝の御理解
x御理解第四十六節 「痛いのが治ったので有難いのではない。何時も壮健なのが有難いのぞ」
昨日は合楽会でしたから皆さんのお話を聞きましたが、そこの久保山さんがあのように熱心に御信心をなさいます。もうそれこそ成り行きを大切にすると、只成り行きを大切にするというだけではなくて、その成り行きを尊ぶという生き方、それをまあ成り行きを今日もいよいよ大切にさせて下さい、と、それこそ毎日この事を願われますが、先だってzお知らせを頂いて、大地の地という字にこう土偏になっておりますね。土書いて也という字が書いてある。その土偏のこの、こう十という字だけを書いてこうはね上げてるのがない所を頂いた、ね。だから十の字に也という字を書いたぶんじゃ地にならない。やはり土偏に也。土偏のこの土、これは上にこうはね上げてある。もうそれこそ成り行きを大切にするという生き方の、まあ合楽の第一人者であろうと思われるんですけれども、それを尊んで頂くという事は、ね、だだ成り行きを大切にするだけでなくて尊ぶ、ね、もう勿体ないとして頂く、と言う事は、成り行きを願いそして成り行きを大切にするという、成り行きをもう切実に願わなければならない、といった様なはなしでした、ね。
私共がその成り行きを願うという事、そりゃもう起きて来る事全てを大事にして行けばよい、という事だけじゃなくて、そこに私共人間のまあ弱さというものが、ね、そう思うとるけれども、だから成り行きを切実に願うと言う事、ね、まあいうならば、私で有難く頂けれる様な成り行き、私がもう、その成り行きの為に迷うたり、それこそグラグラする様な事のない様な、ね、私で受けられる様な成り行きをまず願う、そして成り行きを大切にするという事になるとね、願うて起きて来た事だからね。いうならば有難いんだ、神様のお心の中にあるんだ、という事がまあわかるというわけであります、ね。
ただ成り行きを大切にしさえすればよいというのであったら、もう迂闊にしておる事がございますけれども、成り行きを日々願うて行く、そして起きて来る事だから受けられもすれば、又それを尊ぶ、成り行きを大切にする、成り行きを尊ぶという生き方、ああやっぱ、あそこにやっぱり願わずにはおられん、同時に願わずにおられない事が私共にはいっぱいあるのである。願わんですむ様なおかげを頂いておる時こそが本当はおかげなんだけれども、段々信心がわかってくればくるほど、もう本当に願う事の多いのに驚くぐらい、その願いの中に成り行きそのもの、いわば願って行かなければならない、願って起きて来る事、だから神様は自分で受けられると思し召す事だけしかないというものが生まれて来るんだ、というわけです、ね。
昨日は今村和子先生所のお父さんの五十日祭でしたから、沢山御親戚も三十数名集まって、ま、有難い、しかも賑やかな五十日祭がここで執り行いました。御霊の合祀祭と五十日祭と合わせてでございます。ここの霊舎にいよいよ移られるという事です。
中で私、申しました事でしたけれども、先だってから皆さんにも聞いて頂いたある大阪の金儲けの名人が、まあ話しておられるその話の中に、人間に金がないのは首がないのと同じだと言う、これは誰でも合点がいく。ほんなこと、もう金がなかったら、もう人間首がないのと同じ事と、ほんなら御霊様も光を持たない御霊様は、こんな哀れな事はないという話をいたしました。
私共が、いうなら、この世はあの世の為にあると言われる、ま、そういう信心の、合楽の信心の、まあ原点とでも申しましょうかね、一切神愛とわかるとか、いうならば、この世はあの世の為にあるんだという様な事がわかってくると、いよいよこの世で光を頂いとかなければ、お徳を受けなければという事になる。
私は今日は、この四十六節というのが、もう、始終お徳が受けられるチャンスというものはいつもあるんだ、というふうに今日は私頂いたんです。四十六節、もういつもお徳を頂くチャンスはあるんだけれど、そのチャンスを逃しておるという事。まあどうやらこうやら成り行きを大切にして来たけれども、それを有難いもの尊いものとしては頂けていなかった。これは有難いもの尊いものとして頂けた時ですね、いうならばそれがおかげになるのとお徳になるというのが境、だからどうしても尊び、ね、いわゆる拝んで受けられる様なひとつおかげを頂くとです、一日の内には何回でもお徳を頂くチャンスが四十六節である。
昨日朝食の時に、お休みですから、あの、孫の恵城が一緒にご飯を、え、朝食を頂きに来るんです。そいで、こんな大きなノ-トお持って来ておりますもん。そして「おじいちゃん、これを見て下さい」ていうわけです。何か信心の事を書いてるんですね。小学校一年生です、ね。神様とは何なのか、という題で書いてるんです。神様とはどういうお方かというね、神様とは何なのかとね。そして一番初めに書いております、箇条書きにいくらも書いてるんです、ね。皆なが困った時に良い知恵を与えて下さるのが神様だと言ってるんです。皆なが困った時、ね、良い知恵を与えて下さるのが神様だと、まだ他に色々書いてましたが、ね。
確かに私共が神の叡知に導かれておるという事が信心なんですし、又、でなからなければならない、と思うんです。いうならば、まあ神様任せという様な、ね。神様の仰せ通りに仕える、という事なんかは神の叡知に導かれておるわけであります、ね。けれどもそれ前にね、いよいよの時にはお伺いをして右、左を決めるというだけではなくてです、ね、その事事態をね、いうならば成り行きとして有難く頂き、尊んで頂く、という事になります様な信心がもうひとつ、これはね、理屈で言うたら誰でもわかる事でしょう。
あ-そりゃそうどころではない、とすぐわかる、ね。今日の御理解なんかは、「痛い痒いが治ったのが有難いのではない、いつも壮健なのが有難い」そうどこじゃない、とすぐわかるでしょう。なら、わかったからと言うてそこに神様に通う様な報恩ち言うか、神恩報謝の心が生まれて来るだろうか。ほんに有難いと思うとりますだけじゃいかんのです。どうでも私は信心で、による神様と交流するといった様な事、神様に通うという事はね、ね、ただ今申します様に、いよいよ成り行きを尊び大切にさせてもらうといった様な修行がでけて初めて、成程、神愛だったなあという事がわかるのですから、神愛という事は沢山、神様の神愛だと言うていっぺんに言うてしまえばあおれまでですけども、本当に実感として神愛として受けられた時に初めて、どんな場合であっても、有難し尊し勿体ないとして受けられるんです、ね。ですからその、例えば今日の御理解なんかはすぐ、理屈の上ではわかるのです。そりゃそれどころじゃない、例えばね、神様にお願いせんでんいいような時ほどおかげ頂いとる時、痛い痒いのない時、どうでもない時が一番おかげ頂いとる時、そうどこじゃない、とわかるけれども、わかっただけではなくて、それが本当に有難しとして御礼が言えれるという事は、一切の事がいうなら神愛とわかる、ね。
それには今申します様な、成り行きを願わしてもらう、そこから起きて来る事、願って起きて来る事、そこをいうならば有難しと受けて行く、そして成程御神愛であったという事がわかる時に初めて、それをその成り行きそのもの有難いもの、尊いものとして拝めれる様になる。段々おかげを頂いてね、いうなら実感としてね。まあ何と言うですか、平穏無事な時、痛い痒いがない時に実感としてその事が御礼が言えれる様な心を作る、という事がとりもなおさず、お徳を受ける事だという事です。だから本当言うたら大変難しい御理解ですよね。今日の御理解は。ただわかるだけなら、あ-そうどころじゃない。痛い痒いが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なのが有難いのじゃ、そうだな、とこうわかる。けどもわかっただけではいけない。本当に有難いという事にならなければならない。
今朝から私お夢を頂いて、zお夢の中で久留米の佐田さん夫婦に「いやあ、今度の福引きはおかげ頂いたなあ」ち言うてから話よったんです。夢の中で。で、「何番じゃったの」ち私が言うたら夫婦とも八千八百五十七と奥さんが言われるんですよ。八千八百五十七と。そいから御主人も八千八百??という、そこが私忘れましたけども夫婦とも八千八百で広がりに広がるち言うおかげでした、という様な、あの、お話をしよるところを頂いたんです、ね。八千八百、ね、ハ、ハでしょう。それに五十七と。あっ、五十七じゃない五十六じゃった。八千八百五十六でしたと言いよんなさったとこでした。だからその五、六が問題なんである、ね。
広がりに広がる。いうなら今日の御理解でいうと、いつでも徳を受けるチャンスである、ね。それをね、例えば業という事は私めぐりの現れだとね、あの人は業が深いというでしょう、ね。六という事は、その業が深かったおかげで、今日私が皆さんに聞いて頂いた様な修行がでける、ね。だからそれが六になる、業が六になる。そういう業が六になる様なおかげを頂いて初めて、広がりに広がるというおかげが頂ける、という事であります。八十八の、いうなら広がりに広がるおかげを頂きたい、ではなくて、いうならいつも壮健なのが有難いと実感出来れる、ね、そこにいうならば神恩報謝の信心がでけるおかげを頂かなければ、ね、でけん。
その前提として、難儀そのものが神愛である、ね。難儀そのものは、いうならめぐりが深いという事になりますけれども、そのめぐりのふかいおかげで、業の深いおかげで修行がでけます。その修行がそれを一切合掌して受けるという受け方になって初めて、それから業が六になる。六というのはお徳と言われます、ね。その業が六のおかげを頂いて初めて、いうならば広がりに広がって行く。いうならば根本というか元が出来る、という事であります。
ただ今日の御理解を、ただこう素読みにしただけであったら、ほんなこつそれどこじゃない。教祖様はなかなかうかった事を言うとんなさるなあ、と言うだけでしょうね。どうもない時が大体有難いのだというわけです。もうそれこそ、もう助からない様な事ががおかげで助かって、有難いもうこんな有難い事はないという様な有難いのが、平穏無事の時でもそれが感じておれれる様なおかげを頂く為に信心という事になると、これは容易い信心じゃないという事、いよいよ合楽理念をもってしなければならない。私共がね、まあ様々な時にです、それこそ神の知恵に、恵城じゃないですけども、神様は人間が困った時に、ね、よい知恵を与えて下さるんだと。そこまでは合楽の方達は皆わかっている。いよいよの時には親先生にお伺いをして、という事でありますけれどもね。その神様の知恵による、いうならば教えをね、頂いてそして、いつでもお徳の受けられる状態に、心の状態がなって行く様な修行というのは、ね、どなたでしたかね、神愛という事がわかるためには、やはり修行なしに本当の事はわからんという意味の御教えを頂いておられましたが、ね。神愛という事を話で聞いただけじゃ、ほんなこつ、成程そうですね、神愛ですね、という事はわかるんだけどもね、その実感として神愛とわかる為のやはり修行がいるという事であります。皆さん、私共の周辺にはいつもお徳を頂けれる、力を頂けれる、いうならば光を頂けれるチャンスはいつもあるのですから、事によってその光を頂いて、それこそこの世でお金がないのは首のない様なもん、と同時に私共があの世に行って、もし光がなかったらもうそれこそね、首のない、この世で首、金がないのが首のないのと同じだと言われる様に、いうならば暗黒の中に、それこそウロウロせんならんとね。この世はいうならば、あの世の為にあるのですから、そういう事がわかったら、いよいよこの世で光を頂いとかなきゃ、その光を頂くという事は、その手立てはいつも私共の周辺に始終そのお徳を頂ける、光を頂ける元はあるんだ。そこん所を厳密にね、その頂いて行かなければならんという事であります。どうぞ。